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名も亡き英雄 -Page7-
投稿者:JR(名取) 投稿数:96
ジャンル:ファンタジー
点数:15 点

----------a scene A-a


 夢はあくまで夢であるが、時折、途方も無い現実感(リアリティー)を体感させられることがある。それは例えば、恐怖、嬉々、悲哀――、それに慕情なぞといものも。様々な見目に化体して心魂へ宿っては、夢の世界の扉を気ままに開いて見せる。だが、良い事ばかりでないのは寝ても覚めても相違しない。その先でいつでも天使が微笑みかけてくれるとは限らない。上記のように恐怖や悲哀といった悪魔がその爪を突き立ててくることもある。
 双方ともやる事は変わらない。ただ見せるだけだ。それを拒絶することは不可能である。例え、それがどれだけ望んでいなかったものであったとしても。そこには一切の悪意も善意も干渉しない。よって、奴らには無関係な話なのだ。ただ、見せるだけなのだから。まざまと。微笑みを浮かべて。『どうだい、これがあんたの心だ』と――。

 さて、なぜこんな話を始めたかといえば、一人の幼い少女が扉を開いたのだ。彼女の心魂に宿り、先導(エスコート)するのは天使か、はたまた悪魔か。――否、失礼。それは全くもって意味の無い質問であった。先述の通り、それらはまるで無関係なのだから。彼女はただ見るだけだ。その扉の奥にあるものを――――――――。

----------a scene A-b

 そこは、ただ暗いだけの空間であった。否、空間という表現には語弊があるかもしれない。前後、左右、それに上下の感覚すら存在せず、自身が浮遊しているのか、歩行しているのかも判断できないのだから。
 そもそも、少女にとってはそれすらどうだっていい事であった。この、黒色の油ペンキをベタ塗りにしたような、一切の光という光を遮断したような、平坦で、それが故に薄気味の悪い世界に、いつから、そしてどうして居るのかすら自覚できていないのだから。この世界では五感はまるで役に立たない。尤もな話である。頭の方は何も判っていない。見つけたとしても、聞こえたとしても、それらは何も意味が無いのだ。了知しているのは心魂だけ。大きく、ゆっくり、定期的に胸元を蹴る、その、正体が天使か悪魔かも判らないこの心音だけである。尤も、彼女の表情は酷く怯えていた。緊張、恐怖、不安――そして、絶望の最中に存在する脆弱で、一掬の希望。そういったもの達が心内を徘徊している。油同士が混在する風に。絡み合うように。愛情を確かめる為、男女が抱き合うように。しかし、それですら彼女には関係の無いことであった。彼女にとって、自身の心内ですらこの薄気味悪い世界と変わらない。夢の一部でしかないのである。
 と、如何程したか。悪魔がその醜悪な爪を彼女の心に突き立てた。
 それは最初、靄のようであった。悪魔の爪が、彼女の心魂の深い、深いところまで潜るのと比例して、その姿を露わにしていく。暗闇より、徐々に、ゆっくりと、拡散していく風に。そして、心内に巣食う絶望の最中で針穴程度も存在しなかった希望が、それと同一の速度で拡大していった。

 やがて、靄がその全容を露わにする。それと同時に、少女の心内で希望が弾けた。ぱあんと、波紋を描く風に一気に拡散し、心内が真っ新になる。丁度悪魔が、彼女の心魂へ突き刺していた爪を、心魂(器)ごと引き千切らんとする勢いで掬い上げるのと同一の瞬間であった。
 悪魔が、彼女の眼前に諸手を差し出す。希望が拡散して清冽とした意識の最中、少女はそれをただ眺めていた。距離を知覚出来ないこの空間に人影が一つ。まるで靄の向こうへ存在するように霞み、蛍光のように薄ぼやけている。この空間に今にも飲み込まれ、消え入りそうなエルヴァーン族の青年。白色の双眸。新雪のような純白ではなく、濁りのあるアイボリーホワイトだ。それに同色の毛髪。正面からでは確認できないが、少女は知っていた。それが長髪であることも。その長髪をゴムで結い、後ろで束ねている事も。なぜなら――

「お、父さん・・・・・・・」

 その声は、眼前の青年と等しく、まるでこの空間に飲み込まれ、消え入ってしまいそうな微弱で、か細い声音であった。その言葉へ反応したように青年が微笑む。優しく、柔らかく、温かく、穏やかに。
 そうだ、ずっと・・・・・・、ずっとこの笑顔を探して、私は――。あの、息が詰まるような暗闇の最中を彷徨い続け、漸く辿り付いたのだ。幾度も諦めてしまいながら、消え失せてしまいそうな、その、小さくてか弱い希望を漸く手に入れたのだ。体中が熱くなるのを感じた。血流が熱を帯びて逆流してくるみたいに、足が、腕が、胸元が、唇が、鼻元が、耳が、思考が、そして目頭が。あれ程寡黙を通していた五感の総てが、今、目の前に映る“現実”に歓喜している。少女は気付いていない。溢れ出した感情が涙腺を飛び越え、我先にと、双眸から零れ落ちようとしていることを。少女は気付いていない。怯えていたその表情が、歓喜を蓄えていることを。花が咲くように。はたまた、太陽が上昇してゆくように。徐々に、徐々に、徐々に。

 ――が、彼女にこの幻影(ヴィジョン)を提供したのは他でも無い、悪魔である。
 悪魔が彼女の心魂の真底まで爪を突き刺し掬い上げてくるのは闇だ。より純然で、より深奥な。
 少女の表情から歓喜が抜けた。呆然とする彼女の瞳に映っているのは微笑む父親だ。しかし、それは自身を外して右下に逸れている。少女もそれへ釣られる風に顔を所作する。と、少女の瞳がゆっくりと、しかし大きく見開いた。

 父親が微笑みを浮かべていたのは同族の、同年代の年端もいかない少年であった。艶やかな光沢を放つ漆黒の短髪。夜を連想させるような闇色の双眸。怯臆を内包した端正な顔立ち。知っている。彼女は、この少年もよく知っていた。父親が仕事先で拾ってきた義弟だ。凍結した表情の最中、大きく見開いたその瞳だけが別の生物のように小刻みに震えている。一度は弾き飛ばされた絶望が、自身を跳ね除けた希望を徐々に侵蝕し始めていた。

 やめて。
 依然変調しない優しい微笑みを浮かべた父が、義弟(あいつ)の右肩へ腕を回すのを、ただ眺めていた。
 やめて。
 父と義弟は、そのまま自身なぞ眼中にないように体躯を反転させてしまう。そのままゆっくりと歩み始めた。
 やめて。
 その表情は私だけのもの。その優しさも、大きな背中も、暖かい手も、全部、全部、全部、全部―――――。
 私だけの、私だけのお父さんを、もっていかないで――――――――――――――。

 絶望が、ついに希望の最後の一部分を喰らった。


「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」


 悲鳴が少女の口元から吐き出される。その幼く、小さく、危うい心魂の最中に現存するありとあらゆる感情を真底から総て叩きつけてやろうというような。だが、二人が気付いた様子は無い。様相に変調は窺えなかった。
 悲鳴を挙げた少女は項垂れるように背面を丸くして短息を吐いていた。狼狽している。しかし、何に対してだろうか。先程、全身全霊で挙げた悲鳴か。それとも――――。
 少女は今にも泣き出しそうな顔をしながらゆっくりとまず一歩を踏み出した。僅かに遅れて一歩、また一歩と徐々に力強く存在するのかも判らない大地を蹴り飛ばしていく。
 いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。少女はそれだけを思考しながらずっと叫号していた。「やめて! やめて!」と。やはり二人に届いている様子はまるで無い。
 腕を伸ばし、脚を放る。声を枯らせ、涙を零した。
 どれだけ前方に腕を伸長しようが、どれだけ前方に脚を放り出そうが、どれだけ大きく声を出そうが、そしてどれだけ強く想い、涙を流そうが、二人には決して届かないし、追いつかなかった。それどころか、距離がどんどん離されて行く。遠くなっていく父の背中。遠くなっていく父の笑顔。遠くなっていく世界で一番大切な存在。
 いやだ、やめて、お願い――。それら一切の思念をどれ程強大に切願しようが、そのどれもが無意味だ。総てが夢の一部でしかない。そのどれもが夢幻の最中においてのリアリティーでしかないのだ。冒頭で記したように奴らはただ見せるだけだ。まざまと。微笑みを浮かべて。『どうだい、これがあんたの心だ』と。そこに他意はない――。

 そしてついに、少女の視界から二人の姿は消滅した―――――――――――――――。 



----------a scene B


 ―――――――。
 目を覚ました少女の瞳へまず映ったのは、視界を覆い尽くす暗闇であった。未だに意識は覚醒の途中にあるのか、少女は今もあの世界に居るつもりなのかもしれない。薄朧に映るその暗闇を眺めながら、少女の内心が曇る。悲哀、恐怖、緊張、悔恨――。その数は知れないが、一緒くたに絶望と俗称されるそれらは、表情(おもて)に表れない程僅少に、しかし、確かに瞳の奥へ存在していた。彼女にとっては、愛する父親がいないという時点で、現実(こちら)も夢(あちら)も同じようなものでしかない。

「おや、目を覚ましたかい?」
 その一言が彼女を現実に引き戻した。僅かに表情を強張らせながらそっと顔をそちらへ向ける。生物としての反射であろうか。双方の手掌部を大地に添えて、いつでも起き上がれる態勢をとっている。
 この暗んだ景色の最中、少女の表情が窺えたのか。声の主は苦笑を零したようだ。続けて口を開く。
「安心しな。別にとって食ったりしないさ」
 どこかふき吹き零す風に言葉した主は、どうやら女性のようだ。地面に置かれた手持ちのランプ。その輪郭が曖昧になった薄朧な灯火によって切り抜かれた人影が、まだ警戒を解かない少女の瞳に映った。腰を下ろしていても一見で判断できる長身痩躯。それに尖った耳、褐色の肌といった外見的特長より、種族はエルヴァーン族と見える。銃弾のような金属光沢を含有する暗い灰色をした毛髪。後方へ纏め、項辺りでゴムによって束ねている結髪は少女からは窺えない。同色の眉の下に居座るのは深淵の双眸。深く、黒い二つの瞳。一見男性と見間違えてしまいそうな、浅い皺を作った、凛然として精悍な顔立ち。装着していた八幡胴丸を傍らへ立て、佩帯していた獲物を、まるで恋人の肩へ腕を回す風に、右腕に抱きながら同方の肩へ寄り添わせている彼女は、道中でオーク族の魔の手より、このか弱い少女を救い出したエルヴァーン族の女侍であった。
 だが、その事実を少女は知らない。未だ緊張と怯臆の取れない少女の表情を、同様に灯火の向こうより窺う女侍は、上記の通り、困った風な薄い笑いを浮かべていた。
「ところで、何でこんなところに? ここいらの人間じゃあないだろう」
「・・・・・・」
 可能な限り困惑した色彩だけ仕舞い、可能な限り優しく女侍が少女へ問う。一方の少女はだんまりだ。女侍より視線を逸らし、表情を変調させないままゆっくりと身体を起こした。無理も無い。先程の悪夢から覚めたばかりだ。少女にとって眼前のエルヴァーン族も、自身を先程来襲したオーク族もとりわけ差異はないのかもしれない。だが、女侍は彼女がどのような夢を見ていたかなぞ知らない。魘されていた様子から悪夢であることは相違ないだろう。しかし超能力があるわけではないのだ。内容は判らない。まいったな。再び困惑を僅かに表情へ滲ませた。
 しかし、話したくないものは仕方がない、無理に話させるわけにもいかない。こういう時にあの優男がいれば便利なのだろうけれど――――。
 いや、いない誰かに頼るだなんて――。
 彼女は自身の思考へ内心で呆れた。瞳を伏せる。今この場にいない誰かへ助けを求めたところで何の解決策にもなりやしない。だったら自身が今出来ることをするのみである。自身が今出来ることといったら待つことくらいだ。眼前の少女が何か話してくれるのを、じっと待つことくらいではないか。――ならば待とう。我慢ならば強い方だ。
 女侍の表情から困惑が抜ける。伏せていた瞳を少女へ直した。その微笑みは薄いが、確かに優しく、そして静穏だ。
「話したくないのなら、無理に話してくれる必要はないさ。気が向いたら話してくれ」
 二拍。未だに様相を変調させない少女が、女侍から逸らしていた顔を、ゆっくりと彼女へ向けた。優しく、穏やかに微笑むエルヴァーン族の中年女性が自身を見守っている。少女は先程の夢を――、そしてその前に見た銀燭の蝶々を思い出していた。大嫌いな義弟と微笑みながら去って行く父。ハラリと舞って、命を救ってくれた彼女(蝶々)。彼女だったら―――。
 少女は女侍から再び視線を逸らす。閉ざしていた口を小さく開いた。

「お父、さん・・・・・・」
「!」
 女侍が表情筋をはっと震わせる。消え入りそうな、か細い少女の声は確かに今、父とそう告げた。少女は、再度先程と同様に小さく開口した。
「お父さんと、一緒に・・・・・・」
「一緒に来たのか!」
 女侍が少女の言葉を遮って、身を乗り出す勢いで少女に迫った。その気迫に押されたか。少女は慄然と体躯を震わせ、全身を強張らせたままコクリと首肯した。女侍は表情へ希望を孕ませる。しかし、一瞬の後に先程の自身の態度に気付き、はっと表情筋を震わせた。ばつが悪そうに表情を曇らせる。「ああ、ごめん」と呟く風に言葉すると、少女から視線を逸らした。その表情へは困惑も、優しさも、静穏も――、ましてやあの薄い笑みも存在しない。一見色彩の窺えないその表情の最中、瞳の奥に思案が渦巻いてた。
 父――、確かにこの娘はそういった。まだこの森に人間がいる――――――――。

 少女は、眼前のエルヴァーン族の中年女性の表情をじっと眺めていた。まだ幼い彼女に、この女性の心内を読み取る事が出来るわけも無い。ただ、彼女が答えを出すのを、変調しない――しかし、真っ直ぐな瞳でじっと待っているのだ。逸れていた女侍の双眸が自身をゆっくりと向いた。心音が胸元で強さを上げる。少女は瞳へ更に緊張(力)を込めて真っ直ぐに見返した。
「歩けるかい?」
 少女は質問の意味に戸惑っているようだ。力強く見詰め返してくる瞳の最中で、必死に答えを探しているように思えた。
「一緒に行こう」
 少女の瞳から力が抜けた。呆然と自身を眺める彼女へ、女侍はにこりと、やはり薄く笑む。優しく、静穏に。
「あんたのお父さんを、探しにね」
 希望が今度は少女へ孕んだ。その表情に笑顔が咲く。目覚めの時を迎えた花弁の様に、満面へ。その様子を見守りながら、女侍は浮かべていた薄い笑いを更に深くする。少女が大きく一つ首肯したのは、女侍の最後の言葉から三拍後の事であった。
「よし、決まりだ」
 ぱん、と自身の大腿部を余した左方の手掌部で勢いよく叩く。女侍は抱いていた獲物を傍らへ寝かし、腰を上げた。立てておいた八幡胴丸を手に取り、装着する。晒した額へ八幡鉢巻を巻き、コマンダーケープを背面へ翻す。先程寝かせた獲物を屈んで取ると、腰部へ佩帯した。屈めた身体を起こし、少女へ瞳を泳がす。
 少女は既に腰を上げて待っていたようだ。もうそこに彼女を脅かしていた恐怖や緊張の色彩は窺えない。満面を彩るのは希望と期待だけだ。女侍がゆっくりと、大きく頷く。
「それじゃあ、いこうか。私から離れるんじゃあないよ」
 少女は再度大きく一つ首肯すると、女侍の一歩後ろまで駆け寄った。それを確認する風に女侍が体躯を反転させる。その表情から笑みが失せた。一見色彩を窺わせないその表情の最中、深遠の双眸が、ただ暗いだけのこの道のずっと深奥を、射抜くように睨み据えている。瞳の色は深く、深く、黒い。頼む、生きていてくれ。頼む。決意、希望、緊張――、様々な感情が渦を巻き、絡み合う。どれ一つ消滅せず、混ざり合わず、強く、強く、彼女の意識に根付いていた。


----------a scene C


 如何程の道程を行ったか。同一の景色が続くこの退屈な道中、二人の会話は無かった。しかし、それを心地悪いだの、良いだのという思考は、二人にまるで存在しなかった。女侍の心内に、そんな感情が腰を据える余地は存在しなかったし、少女の方もそんな心持ちが伝染したのであろうか。あれ程希望に満たされていた表情は、僅かな緊張を湛えて前方を見遣っていた。相互共に眼中に入っていない、といった様子だが、不思議と足並みは揃っていた。女侍が常に少女へ歩調を合わせていたのだ。

「――――――・・・・・・」

 少女の足が止まる。その事へ直ぐに気付いた女侍も足の行方を制止して、少女を振り返った。そわそわしている。焦燥と期待を同時に表情へ浮かべて、辺りをきょろきょろと窺っていた。その様子を不思議そうに眺めていた女侍が口を開くのと、依然変調しない様子の少女が口を開いたのはほぼ同時のことであった。
「ど―――」
「お父さん!」
 「お父さんの声がしたの!」そう続けて少女は依然そわそわと辺りを見回している。馬鹿な、声なぞ・・・・・・、女侍は俄かに少女の言葉を信用できずにいた。少女の言う声とやらも、気配ですら知覚出来ない。しかし、この少女が虚言でこのような事を言っているようにも思えない。果たして――。

「――――――・・・・・・」

 少女が勢いよく背面を振り返る。そして、その表情が固まった。その様子の異変へ、女侍も背面に顔を向ける。はっと表情筋を震わせて、彼女もまたそのまま表情を固めた。
 二人と少し距離を取った位置。そこに一人の男が立っていたのだ。一見してわかる長身痩躯。それに褐色の肌と尖った耳。どうやら種族は同族だ。双眸は白色。新雪のような純白ではなく濁りのあるアイボリーホワイトだ。同色の毛髪をしたその青年がこちらに笑みを向けている。穏やかで、優しく。そしてどこか儚く。
 まるで現存しないように薄朧な存在。Ghost族であろうか。それにしては殺意は愚か、敵意すらない。――否。そもそも気配すら感じなかった。女侍は得物へ手を走らせる事すら忘れきっていた。
 女侍ははっと我に返る。眼前の気配が静かに一歩を踏み出したのだ。行くなと叫ぶべきか。身を乗り出し、彼女の進行を阻むべきか。そんな思考が靄の向こうに浮かんだような気もするが、どれもが上の空。総てはそこに浮かんでは消え、浮かんでは消える。女侍は自身の瞳に映る非現実的で不思議な現象へ、ただ瞳を置いていることしか出来なかった。まるで眼前に図太い哨壁が聳立したようだ。すぐ眼前の事なのに総てがまるで戯曲のようで、一切の干渉を許されていないように、言葉も、所作も、すっかり竦み上がっている。自身が一番拒否しているのだ。止めておけ、出る幕ではない。心底でその一心が一切の言動を拘束していた。
 女侍がそうしている内に、少女は一つ、また一つと歩みを進めていた。壁の向こうへ一つ、また一つ。その表情へ最早焦りは色彩を失っている。歓喜。その一色がそのパレットへベタ塗りされていた。口元は綻び口角を僅かに持ち上げ、目頭からは涙がぽろぽろと零れ落ちている。ああ、やっと会えた。やっと出会えることが出来た。その笑顔は自身を向いている。自身だけを見てくれている。震えている腕を、ゆっくり、ゆっくりと右方だけ持ち上げていく。それへ応える風に、前の青年も両腕を広げた。まるで翼を広げる風に。ゆったり、大きく。自身へ向かってくる少女の顔を追う彼の表情は変わらない。少女は「あぁ・・・・・・」と感嘆を漏らす。ゆっくりと覚束ない様子で持ち上がっていた腕は、体躯の脇で静かにその双翼を僅かに広げる。ゆっくりと進めていた歩調を小走りにして青年の元へ駆け寄った。
 青年が目前に迫ると、僅かに広げていた双翼を勢いよく広げる。その勢いのまま青年へ抱きつく――が、広げた両腕が抱き締めたのは宙であった。失速した足取りは一つ、二つと大地を踏んでそのまま制止する。強く抱き締めているはずのエルヴァーン族の青年の体躯は背面だ。先程まで彼女の満面を彩っていた希望はどこへ席を外したのか。少女は何の感触も残さずに震えている双方の手掌部を呆然と眺めていた。“現存しないように”ではない。青年は既に有体しない存在となっていたのだ。
 女侍は、青年の表情が悲哀に沈むのを見た。その名残を引き摺ったまま無理に先程と同様の笑顔を表情へ貼り付け、青年が振り返る。片膝を付き、少女の頭へ腕を乗せた。
 乗せられても何の感触も残さない体。少女の表情が次第に絶望と悲哀に蝕まれていく。青年が口を開く。だが、それは再開を喜ぶ言葉に留まらなかった。それに続いたのは別れの言葉だ。
「もう一度会えて、本当によかった。しかし、もう、お父さんはゆかなければならない。本当に、すまない――――」
 それは、女侍には聞こえない幻。だが、少女にとっては穏やかに、そして優しく心内へ流れる確かに実存する言霊。しかし、意思は必ずとも疎通するものとは限らない。少女は拒絶した。見詰めていた手掌部で双眸を押さえつけて。首を大きく左右に振るい。それでも現実は少しずつ彼女から希望を剥ぎ取っていく。一枚、一枚、身包みを剥がされるように。それでも少女は必死に拒絶した。「いや! いや! いや!」押さえつけているはずの双眸からは涙が零れ落ち、口元からは枯れた悲鳴が吐き捨てる。
 いやだ、そんなこと言わないで。ずっとそばにいてくれないといやだ。折角、この暗闇の最中をお父さんに会えることだけを信じて、怖いけど、苦しいけど、必死に、必死に前だけを見て歩いてきて漸く会えたというのに。それが別れの瞬間だなんて――――――

愛 し て い る よ

 それが父の最期の言葉であった。別れの言葉であった。もう、穏やかに、優しく心内へ流れ込んできた父の言葉は、それを最後に、もう二度と聞く事は出来ないのだ。顔も、手も、足も、眼も口も鼻も髪型も――。もう、二度と、二度と触れることはできなくってしまった。
「あっ、あぁっ・・・・・・」
 咽び返すように少女は声を漏らし、その場に膝から崩れ落ちた。そのまま上体を倒し、屈みこむ。最後の一枚が剥ぎ取られた。裸になった彼女の心内を、もう隠す物も、抑える物も無い。その胸元に抱えていた小鳥は獰猛な猛獣に食い潰された。もう、囀りは聞こえない。今度こそ本当に、彼女の心内から希望が失せた。
 嗚咽を漏らし、すすり泣いていた泣き声は、やがて泣哭へと姿を変えて、彼女は泣き崩れた。絶望と悲哀が暴力的に彼女の心内で咆哮を撒き散らし、胸を打つ。いつまで経っても鳴き止む様子を見せず、本能のままに暴れ狂うそれへ、まだ幼い少女は従う他なかった。思考に浮かぶ父の面影は、総て直ちに餌となり、勢いづかせるだけだ。従って少女は泣くだけだ。ただ、泣くしかないのである。酷く破滅的な方法かもしれないが、今はもう、泣き暮れる他に術はない。

 女侍は、そんな少女の様子を前に、ただ呆然と立ち尽くす事しかできなかった。
 あのエルヴァーン族の青年が天に召される前に自身を振り返って言った。

この娘を、どうぞ、宜しくお願いします

 声は聞こえなかった。幻聴なのだろうと問われれば肯定せざるを得ないのかもしれない。だが、確かに感じたのだ。困った風に、しかし、やはり穏やかに、優しく笑むその口元がそう所作したのを。
 ――しかし、一体どうしろっていうんだ。
 どんなに思考しようが、総て靄の向こうへふっと消えていってしまう。消えていってしまうそれらを前に、自身は手を伸ばすこともできない。思考は空転を繰り返し、その表情と同様に伽藍としている。
 
この暗いだけの闇夜、少女の泣哭だけが響いていた――――――――。



Page7
―あくむ― -Event at that night-


投稿日時:2007-05-04 21:41:23
(表示:1-5) 1 
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[005] 感想記事の投稿有難う御座います。
投稿者:JR(名取) 投稿数:96
 くはぁ、お褒めの言葉有難う御座います。
 ぐいぐい、そっち方向へ引き込みつつ、今回で完全に陰へと方向は転換しています。そして今の内に自白しておかねば。日が差すのは大分後で、この先「夜来風雨」がごうごうと唸りを上げるものと思われます^^;(逃走;)
 夢のパートでは確かに制限が無くなるもので、悪魔がそこいらに餌をばら撒いていくわけですが、Banditさんへの返信にも書いたことで恐縮ですが、今回は夢の最中で体験する現実感について重点をおいて描写しようと思っていたので、何とかスルーできたのかもしれません。それでも『と、如何程したか。悪魔がその醜悪な爪を彼女の心に突き立てた。』の下り辺りはかなり危なかったのですが^^; 良かった、ラインは踏み外してなかったようです。
 いつもそのシーンの動作や表情を頭に描いてからそれを文章にしようと試行錯誤しているので『読み手に強く絵を描かせる』と言って頂けると非常に嬉しいです。ともあれ、俺としてはさそさんの――特に戦闘シーンのようなぐいぐいブラックホールのように世界観に引きずり込んでいく描写に脱帽しているわけで――非常に、勉強させて頂いております^^
 Cpartは確かに本来そういうシーンなのかもしれませんね^^; 冒頭で振り逃げしましたが彼女が隣人の存在を意識し始めるのは大分後になりそうです。常に彼女は心に闇と孤独を抱いて生きることになります。(ひどい作者だ;)
 次回からもご期待に添えられるだけの作品を描けるように精進したいと思います^^
点数:0 点
投稿日時:2007-05-16 22:57:19
[004] 感想遅くなりましたorz
投稿者:さそ(下級職人) 投稿数:50
あなや、お変わり無く格調高い御文章…(つдT)
当方もやはりうって変わったムードにびっくら仰天したクチですが、あっちゅー間に描かれた夢の世界へ――つまりは物語の中へ――引き込まれていってしまいました。

いやしかしBanditさんも述べられてますが、夢の描写というものは登場人物もさることながら書き手の方も他意の無い天使と悪魔に「ほら、こんな描写も出来るよ」と無茶な(それでいて書き手的には魅力の)提案をされるもの。そういった誘惑に些かも捕らわれる風も無く、緊密・細密そして緻密に描ききっておられる辺りに流石の風格を感じます。う〜〜ん、百戦錬磨。

Cpartは少女にとってもお侍さんにとってもあまりにも辛い事情でありながら、それでもどこかに暖かみが感じられるのは彼女たちが独りぼっちではないからなのでしょうか。
出会って間もないとはいえ隣人は有り、最期の別れながらも父から「愛している」との言葉も有り、真なる孤独と闇の閉塞を味わい尽くしたApartの後に見るこの光景には「未来」を感じないではおられず、涙はさながら日が差す前の「夜来風雨の声」のようにも見えてしまいました。
……ってJRさんの意向ガン無視で迷惑な見方をするたぁ我ながらどういう了見でしょう(笑)。いやいや、読み手に強く絵を描かせる表現力のたまものであります。

次作にて、また素敵な絵をまたたくさんたくさん描けることを心待ちにしておりますです〜!
点数:8 点
投稿日時:2007-05-16 15:24:34
[003] 感想記事の投稿有難う御座います。
投稿者:JR(名取) 投稿数:96
 ええ、もう^^; Page1とPage2のテンションはどこへいったんだ! みたいな; 確か、原版の方でも同じようにあとがきだったか、返信だったかで嘆いていた覚えがあります。そうです、つまりまだこんなムードの話が暫く続くって、そういう話です(傍迷惑;)
 名も亡き英雄の場合Page1とPage2の馬鹿みたいに高いテンションの内容の裏で、暗い内容の物語も幾つか含んで在ります。この少女のパートはその内の一つに相当するものです。
 少女には父を失った悲しみを。女侍には彼女の父を助けられなかった悔しさと、目の前で泣き叫ぶ少女に何も出来ない自分への無力感を演出したかったので、幽玄だなんて勿体無いお言葉を頂けて歓喜の極みです^^
 夢のシーンでは夢の中で感じる現実感を表現できればいいなと思っていたので、お褒めに預かりとても嬉しいです^^ 少女としては2回父親を失っている感覚ですから実に迷惑な話なわけですが^^;
 くは、学習能力の無さを露呈してしまったw;
 「出会えることが出来た」の場合「出会うことが出来た」が正解か; 再び同じミスをするとは; 次回から、推敲へもっと力をいれて臨まねば。ご意見有難う御座いました^^ 次回からも、何か気が付いたことがあればご意見頂けると非常に嬉しいです。宜しくお願いします^^
点数:0 点
投稿日時:2007-05-10 02:08:26
[002] 先生! ムードが別物です!
投稿者:Bandit(目録) 投稿数:137
それはともかく遅くなりました感想です。
夢の描写というのは無制限なだけに好き勝手やれそうでいて、その実何か大事なラインを踏み外すと即座に興醒めになってしまうという大変危険な諸刃の剣、素人さんにはお薦めできない難易度Cの領域だとしみじみ思うわけですが。
その点今作はかなり巧みにクリアされていて感服しました。徹底した描写と着実な展開、長い不在はブランクにあらず、しっかり充電期間とされていたようです。お見事。
その後の森の中のシーンも、幽玄の趣があって大変よいと思います。儚げな雰囲気がちょっぴり新境地。
あ、そうそう一点挙げるなら「出会えることが出来た」は意味が重複しますネ!w

次作は「宜しく」とのこと、楽しみです。
首を長くして待っていますよぅ!
点数:7 点
投稿日時:2007-05-10 00:03:54
[001] あとがき。
投稿者:JR(名取) 投稿数:96
 サイトが変わったからって副題変えさらすとはどういった了見だ。書いていたらこちらの方がしっくり来てついつい変えてしまいました^^;(ついついじゃねえよ;)
あぁ、久し振りに1年の壁を越えられた;; なんて思っていたら何の事は無い、内容量がいつもより極端に少ないだけでした。書きたいことを纏めて賭けるようになったのか、それとも単に内容が薄くなっているだけなのか。それも作者以外では判らないことですが、感想記事が非常に緊張します^^;(結局他人任せ)
 今回の物語は大まかに正に悪夢であったAパートとその悪夢が正夢となってしまったCパートの二つで分かれます。この物語で完全に少女は希望を失い、打ちのめされてしまいます。この後少女はある決意をし、それから最悪の方向へ物語りは展開していくことになるのですが、いつになることやら^^;(自暴自棄;)
 ストーリー上の構成や、表現方法、誤字脱字等、気になる点がございましたら、どんな些細なものから明白なものまでご意見頂けると、今後の作品の非常に励みになるし、嬉しいです。
次回はウォ〜マ〜さんに宜しくのAリーグのその後の顛末とBリーグのさわりをやりたいと思います。
最後までこの物語を読んでくださった皆様方、誠に有難う御座いました^^
点数:0 点
投稿日時:2007-05-04 22:22:07
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